体の声とみていくことで、歌うための制限から声を解きます。すると、当初、発声の声と歌やせりふの声が一致しません。そういうジレンマに陥るのです。だからこそヴォイトレです。
声の完成を目指すのなら、そこで歌えなくなる、せりふにならなくなるのは、あたりまえです。そのジレンマをしっかりと受け止めなくてはいけないのです。
自分の歌やせりふの声は、あまりよくないと多くの人が思っています。日常的に使っているからこそ、そのなかでのレッスンでは、大してよくならないのです。そこで私は、「非日常なまでに日常性を拡大する」ようにしていくのが、レッスンだと言ってきたわけです。これは、本人が「これまでにない表現や世界に対応できる器をつけていくこと」を意味します。
たとえると、毎日一万歩歩くのがきつい人が、一年後に楽に一万歩歩けるようにする。腕立て10回しかできなかった人が50回できるようにする。10回しかできない人にとって、日常は10回で、50回は非日常です。でも50回できる人にとっては50回が日常です。100回ができなければ、そこは非日常です。本人が、その器が大きくなることで日常が強化される、拡大するのです。
声量や声域では、量的な比較がしやすいので、それがヴォイトレの目的になりやすいのですが、それは副次的効果にすぎません。声からみたら、せりふということばでの発音なども副次的効果とさえと言ってよいと思います。