一流のものが、これだけありながら、本質を捉えられないのは、どういうことでしょう。直観力が衰えていることもありますが、元より、声の場合は、聴く耳の力のことだからでしょう。聴力でなく、聴きとる力です。声の表現力、その効果がどこまでわかるかというのは、文化としての国の民度、生活の問題です。つまり受け手です。レベル、対話なら相手、芸なら観客のレベルとして、問われているのです。
そこでは「秀でている-劣っている」の対比でなく、好き嫌いとか、価値観の違いとされてしまいがちです。スポーツのように同じ土俵や共通の制限がないから、ジャンルとか時代によるとか、個人の趣向、好き嫌い、とされてしまうのです。
トレーニングで基本を身につけるというのなら、そこで最高レベルのものを定義しなくてはプロセスが成り立ちません。一流のもつ共通項や、そのバックグランドをみるのです。それをしないで、一流の人や身近な見本をまねるだけでは、よくなりません。早くできるようになったつもりでも、それは、できる人と似ているからに過ぎないのです。でも、周りもわからないとなると、それがもてはやされます。そうして、少しずつレベルは低下していくのです。
今の日本では、こうした本質論を展開していく土俵がありません。「日本人の声は世界に劣っている」というとこりろから述べなくてはいけない分、やっかいです。