声に対してどこまで求めるのかは、ヴォイトレを求める人に共通する問題でしょう。でも、声はツールでありメディアです。それを媒介にして何を伝えるのかばかりに目がいきます。声そのものの必要性は、目的やその人自身にもよります。しかし、ヴォイストレーナーには、声の力はいるでしょう)。
私が最近、取り上げている問題は、筋トレの不要論とか、ハードトレーニング害悪論についての見解です。
若いトレーナーが、合理的、効率的な方向へ行くのは、いつの世も同じことです。絶対的にキャリアは不足しているのですが、一般化してきたヴォイトレ市場で求められるニーズに応じてのことです。
私の世代あたりから、そういう意見が多くなっています。もともと声が出なくて芸でカバーしてきた人、ハードなトレーニングで声を壊したり、声に苦労した人、非効率かつ間違ったトレーニングをやったと思い、後で効率的な正しいトレーニングをやってよくなったと思った人などがいます。そういう人は多くないのですが、トレーナーになったり声について発言することが多いので、あたかもそれが主流のように思われるようになります。ユーモアの研究者にユーモアのない人、話のトレーナーにうまく話せない人がなるのと似ています。「使い方が間違っている、それを直せばよい」という効率論になります。こういったケースについては、本人の体験が元になっているだけに真実味があります。が、むしろ特別な状況である、というのを知っておいて欲しいのです。