もっとも、歌もイベント化、パフォーマンス化してしまい、変わってしまいました。それについて、ヴォイトレも雑に荒っぽくと、小さく弱く(高い)という方向に両極化しました。ただ出していたら出る、というのと、とにかく丁寧に繊細に、というのが多くなりました。
この両極の問題は、考えようによっては、日本のヴォイトレの当然の帰結ともいえるわけです。スポーツでいうと、小中学生の体では無理せず、しぜんにするというのと、高校、大学生で、脱力フォームだけで仕上げるということにあたるかもしれません。自己流で体だけハードに鍛えてから応用する人もいます。
力が入りすぎているケースでは、ヴォイトレに来ると、発声と共鳴の効率化を求められます。求められなくてもそこがポイントです。調整とバランスは、あらゆるケースで欠かせません。しかし、その支えとしての体づくり、呼吸づくりも欠かせないのです。それを呼吸法や発声法という形だけにとられ、実質をおいていってしまうので、大して身につかなくなるのです。
基礎ができている上で、力が入ってきたりバランスがズレてきても、それは調整ですむのですが、そこまでしっかりとした基礎ができている人はあまりいません。