夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

部分と全体

基礎、応用で述べたいのは、部分と全体との関係です。いくら喉だけみても、あるいは、直したところで、トータルとしてよくならないからです。医者が声帯を手術して、完璧に治したとしても、悪くなった原因は、発声のしかた、その人を取り巻く環境や習慣があるのです。それを変えなくては、同じことをくり返す率が高いのです。若いときは回復していただけで、元から問題はあった例が多いのです。

 私のところを紹介していただいて、さらにそういう人の問題のありようや解決策の事例が、研究所に溜まっていくのです。医学もホロニック医学と言われるように、ホロン=全体を常に視野に入れておかなくてはなりません。大局あっての各論です。

 しかし、トレーナーや生徒さんは、各論を好みます。頭がいいというか、知識があるから対症的な技を好むのです。注射や薬が、プラシーボ効果(擬薬)でも、もらうと嬉しいし、効く。効くのはメンタルに、ですが。私は何でも効けばいいと思っています。それにお金や時間を使うの?とは思いますが。

一人での限界

プロ歌手のレクチャーなどは、「同じような実演の場をもつ人にはアドバイスとして意味があるけど、他の人には無力」ということも多いのです。プロというのが、声や歌の技術に必ずしも支えられていないところにも無理があります。

 一方でトレーナーやヴォイトレ方法論を云々する人も、メンタルトレーナーで終わっていることが多いのではないでしょうか。現場とレッスンの場が結びついて、トレーナーとプロ歌手が結びついてこそ、マックスの効果が上がるものでしょう。

 プロ歌手は歌うことに、トレーナーは教えることに専念すればよいのです。しかし、本業が自分の才能を満たせなくなると転移が起きます。それもOKです。ヴォイトレにいろんな人が参入することで、何事も豊かにもなっていく可能性があるのですから。

 本人が何を元としているか、そこで欠けているもの、補うべきものは何か、それはどうすればよいか、誰に学べば最良なのか、こういうことについては、トレーナーもヴォーカリストや役者と、もっと考える必要があるのです。

プロゆえの欠点

「専門家は専門ゆえにみえなくなる」というのは、近代医療をみればよくわかります。「医者に殺されない本」がベストセラー、それも医者が書いています。医療において不正な行為や営利よりも、命を救おうと考えて起きる構造的な矛盾を、私たちは知らなくてはなりません。

 がんの告知から500日、41才の若さで急逝した、金子哲雄さんの本に、奥さんの後書きがありました。自宅で危篤状態で119をまわして、救急車を呼ぶと、延命処置で生かされてしまうから、本人の望み通りに、医者を呼んだとありました。終末という大切な問題を、死と直結する医師の医療では解決していないどころか邪魔をしているケースもあるのです。そこで、しぜんと長期にという東洋医学や漢方なども見直されているのです。

 ヴォイトレも、応用のための基礎なのに、応用をみないでどうするのでしょうか、というケースもあります。プロ歌手になりたければ、声をよくする、歌をうまくするのでなく、プロ歌手になろうと動かなくてはいけないのです。

表現=基礎の普遍性

私はいろんな分野で、初めてヴォイトレを行い、成立させようとしてきました。

 分野が違っていても人の心を打つほどのものとなれば、分野を超えて、同じものだという表現(応用の応用)、もう一方では、芸や人によって個性や個人差はあるとしても、もう一つ掘り下げたら、人間としてのベースは同じものだという基本(基礎の基礎)、この2つを本質として、捉えているからです。

 とはいえ、何回も失敗もし、誤りもしてきました。そこまでの仕事を求められたトレーナーもいないでしょう。名医というのは、100パーセント成功という人ではありません。他の医者があきらめ、手をつけない患者を治そうとするから、成功のパーセントは低くなります。その勇気と痛手が、その人を学ばせ高めていくのです。

 ですから、私はトレーナーには「奢らずに、細心に、他の人からのアドバイスも受けて独善にならずにやりなさい」と言うのです。

応用の目的ありき

私が応用という目的を念頭においているのは、結果がでなければ失敗、それをきちんと踏まえてフィードバックして、常によりよく、プログラムを改善していこうとしてきたからです。

試合のないフィールドでいくら練習しても、自己満足だけになりかねないからです。と言うまでもなく、もともと最初から過大なる結果が問われるところでの、ヴォイトレばかりしてきたからです。あらゆるところに生の現場がありました。ヴォーカルスクールなら、それは発表会ですが、私の相手は一度きりの大舞台、あるいは、連日の公演などへの対応です。

 そこで全て成功などということは言いませんし、ありえません。ステージでは一度もミスはなく、完璧だったという人もいるかもしれませんが、私の立場上、そんな仕事は、さほどありません。プロでくるのは、調子を崩した人以外は、完璧主義者でまわりがOKでも自分が許さないという厳しい基準を持った人だからです。

 声を応用で厳しく、基礎で厳しくみているヴォイトレというのは、他にはあまりないと自負しているのです。

私からみると、誰もに通じて誰もがよくなるヴォイトレは、トレーナーでなくとも、誰でもできるレベルのことで言っているとしか思えません。医者もお手上げのケースでも、何とかしなくてはいけない、でもうまくできない、そういう難しいケースに直面したことのない人ではないでしょうか。

 

スクールでの限界

ヴォーカルスクールやカラオケ教室は、私からみると、普通に歌える人が少しうまくなると成功といえるところです。本人がとてもうまくなりたいと思っても、根本的にはさして変わらず、短期で少しうまくなって終わるところです。

 それはうまいということが、聞く人に価値を与えることと異なることを把握しないままに、へたでなくしているからです。本人の実力の限界にぶちあてるということを避けているのです。

 表現とはいうものの、大半のヴォイトレもまた、そのレベルで行われています。ですから、まだ本当の問題に切り込んでいないのです。

 批判しているのではありません。本人に必要がなければ、こういうのは問題として上がってこないからです。

街のフィットネスジムでは心身の健康づくりができていたら充分です。病状の重い人やオリンピックを目指す人は行きません。

ヴォイトレとして、心身や身体だけに入り込んでいくのも一つの方向です。そこで応用(歌など)に対しては触れずに行っているものも増えてきました。

 最近のヴォイトレは、私からみるとリラックス、ストレス解消レベルで声が出るというものが多いのです。その効果はまさにフィットネスジムに行った後の声の変化と同じくらいです。

昔からやっていたところでは、なかなか体=声=心をしっかりと捉えて本質的な変化を出しているところもあったのですが、少なくなりました。

 

体から声をとり出す

発声、共鳴までと、そこからの応用(歌唱、せりふなど)は、本来、楽器の製造、調律と演奏家ほど異なるものです。しかし、楽器と違って、声はすでに一人ひとりが製造しています。調律などしなくとも、日常で歌い、しゃべっていますから、歌唱という演奏しか指導の対象にならなかったのです。

 しかし、私は2つの理由で、ヴォイトレで、純粋に体から声を取り出すところに焦点があてました。

 1つはプロの、さらなる高みへの要求です。技術を一通り応用した限界になったとき、一つ基礎を掘り下げ、心身の問題に向きあわざるをえなくなります。

 もう1つは、もともと心身の問題のあった人です。人並みに声が出せない、使えない、トラブルがあるので、直面せざるをえません。

 研究所にくる人にも、この2つのタイプが多いので、私は常にヴォイトレの中心=本質に触れてきました。

病院に行くのは、高額な人間ドックに定期的に行く人と、病気の人、病気がちな人です。世の中、心身のところからの問題を抱える人が多くなってきたのです。

合唱でのヴォイトレ

ヴォイトレを表現と基礎と両方でみるという私の立場は、当たり前のようでいて、業界では異質のようです。たぶん、執筆した本から、新たな分野のチャレンジャーが多くいらしたこと。こちらから出向いたからだと思うのです。

 実用の範囲が定まっている分野では、マニュアル化で細分化され、分担されていくものです。

合唱団であれば、指揮者兼歌唱指導をする声楽出身の先生がいます。私は、この指導はヴォイトレとは異なるとも思いますが、小中高校生には、トータルとして管理(フィジカル、メンタル)が必要なため、比較的早く体系化できたと思います。

ヴォイトレでの立場

ヴォイストレーニングをヴォイトレを略するのは、日本人が2拍、しかも2×2拍(4文字)を好むからです。本当は、ボイトレの方が日本人にはよいでしょう。

パーソナルコンピュータ→パソコン、合同コンパ→合コンなど、あらゆるものを○○/○○と略するのは、日本人のリズム感覚と拍感覚です。欧米の3拍の感覚に近いのは、東日本でのマック(マクドナルド)が、関西から西日本で、マクドになること、この辺りは機を改めて述べましょう。

疑うこと

アナウンサーは、話や声の専門家ではありません。ほとんどは、サラリーマンとしてマニュアルを丸覚えしただけです。プロというなら報道のプロ、パッと渡された原稿を、ポーカーフェイスで正確に発音し、伝達することのプロです。それ以上にいろんなことができるようになった人は、本人の個性、キャラクターとその努力によるものです。

 ヴォーカルや役者のスクールでも、そのような傾向が増しています。養成所というのも、今やスクール化しています。

 日本の学校教育は、そこから出ている人材をみる限り、劣化していく一方ですから、それに似たスクールや教え方というのは、疑ってみる必要があります。主体的にやらないまま他人からマニュアルから抜け出せずにいる人ばかりになっています。

 昔は、自分で思い通りにやってから、全てを否定されに現場にくるというのが、もっともリターンの大きな教育だったのです。

トレーナーよりアーティストに

トレーナーになりたいという人がけっこう出てきたのに、世界に通じる一流のアーティストを出した一流のトレーナーというのは日本にいないのです。音楽については世界に出て学べといわれるのですが、世界に出ても学べていない現状から、一流のアーティストにストレートに学べといいます。

 一流のアーティストは、トレーニングや日常の管理についても一流と通じるものを持っているからです。ただし、「○○はだめ」と言うようなアドバイスは、あまり聞かないようにしましょう。私が知る限り、アーティストには、おかしな、本人だけにしか通じないジンクスによるものが少なくありません。

 彼らは、「君の思い通りにやれ」ということでしょう。思い通りやらせてファンにしておくのです。日本人はそういうのが好きなのでしょうね。

制限しない

何でもやればよいのです。その点については、私はどんなトレーナーよりも無制限、オールOKです。他のトレーナーが絶対やらせないこと、禁じることでもOKです。喉を傷めることさえも、知って学んだらよい、何でも自分で確かめることを勧めています。何をやってもよいのです。

 過保護扱いして制限すると自立しにくくなります。狭いところから抜けられなくなります。そのあたりは、トレーナーでなく、一流のアーティストに学べということです。