夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

くり返し

シンプルなトレーニングメニュでは、その単調さに飽きる人もいます。そのことを無意識に際限なくくり返していくと、意識は次のレベルのものを捉えようとします。少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていきます。それを狙ってのことです。そこまで待てるのかという忍耐力か感覚かを試されるのです。

 メニュをこなして次のメニュにいくというのは、メニュをやっているだけです。何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づきやすくなるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのです。その場合、一通りやり終えた後で、必ずもう一度詰めて行わなければ何にもなりません。

 与えられたメニュをやることで、知らずと自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自の分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてでしょう。

一つには、生徒はトレーナーから教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介することに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。せりふのしゃべり方、歌い方を教えるとなると、尚さらのです。形だけのレッスンになっているのに気づく、そしてそこから意味を問うことです。

 

トレーニングと一流の差

レーニングは、確実な地力をつけていくためにします。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保するのです。まさに礎づくりです。

 再現性=基本は、キーワードです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎません。

 一般の人の参加するスポーツなら、怪我をしないで毎日健康に過ごすというのは、最低限での再現性で目的といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。

 毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」は来ません。この関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限って、トレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うばかりで不毛なのです。

声と歌、せりふ、結びつきの強さ

声と歌やせりふ、この関係も、体と声が一体化しているように、距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。一体となれば正しいも間違いもないのです。

 強い声は、ないよりもあったほうがよい。それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまではよいことですが、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。

 体を、筋肉で強くするなら、トレーニングに量と時間をかけることです。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果をベースにしています。歌やせりふで判断するとしたら、量、時間よりは、質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。

声と体のイリュージョン

体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、ツールとしたら、それはすでに体に一体化している。声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。

 荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり実感は違うはずです。愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。

 子共は、寝たら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量だけで判断するのは愚かなことでしょう。

感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。計量より感覚に基づきます。科学的より想像的であるべきです。

 生きていること、連がっていること、関係と深さです。

 自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっています。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。

 

メニュ

伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、くり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、「息を吐いてろ」ということになるのです。

 今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、丁寧に講釈します。そして、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えたメニュとして出すことになります。

 ですから、メニュなどは、元より形です。何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすい形になってしまうのです。

 そこには大した根拠も道理もありません。何もないというのではなく、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台と思うことです。

 私が叩き台として出しているものをバイブルのように扱う人が出てきて困りました。メニュをやってみただけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。それで水をすくってこそ、使えるものとなるのです。体やその人自身を離れたところに、どんなメニュがあるものでしょうか。

脱力の力と伝承

机の下にもぐって頭を上げたときにぶつけて、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートな痛みは生じない。限界まで頭を打ち付けようとしても、死ぬつもりでなければ、どこかカバーしてしまいます。死ぬ気でぶつけても難しいでしょう。

しぜんに頭をぶつけたとき、腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているから痛いのです。漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、そういう瞬間は、理想の心身状態です。そこで発声共鳴もしたいほどです。

 それでは他人にぶつけてもらう、といっても、殺す気でなければ、カバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。

 そこまで覚悟した師がいるならつけばよい、殺される可能性の方が高いし教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。

 誰でもよいから何か驚かせてみろよというくらいの関係もあると思うのですが、驚かせることをできるのは、限られた弟子でしょう。

我慢と正念場

我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では個として、強くないともいいます。たまに逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。

 頭でイメージして理想を固めていくだけでは無理があります。現実は思うままにいかないのです。アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは、体が固くなって心も自由になっていないところで限界になります。

 レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前にイメージさせ、一瞬でも現出させることを要します。

 一流に憧れ、やり始める時期は、誰でも幸せです。夢と未来しかないからです。下に落ちることもなければ、停滞もしません。やった分だけよくなっていくからです。そのまま続くということがレッスンになっているとしたら、少なくともアーティストへのプロセスではありません。ありえるとしたら、その人が修羅場続きの本番をもち、そのフォローとしてメンタルトレーニングにレッスンを使っているケースです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいます。私たちも一部、それを担っています。しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。

 

なる

なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これも、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということです。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、あなたの今のことですが、なるようになった今、そこをみてスタートするのです。

 レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を前提条件にします。

 結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今が、これまでの生涯の結果です。

 しかし、それなら何もしなくともよいということではありません。

 ここからも時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指す、なるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころか、よくないようになるのはわかりきったことです。

 でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。

姿勢のイス

年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかなくなることです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。

経験を積むと、知ったかぶりをしません。無理無駄をなくして、動きを効率化しようとします。

若いときには、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それは自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。

 私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、2日以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、2、3時間でも出てくるようになったのです。皆に姿勢がよくなったと言われて気づきました。日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。

 海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば、です。そういえば、モデルの女性も、モデルになるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多いです。一般の人よりもヴォイトレが大変です。

 日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、腰痛のせいで、人体としての構造上、正しい姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、座るより立つ方が楽になったのです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。

 

場のよさ

あなたにとって、レッスンのスタジオ以外のところがリラックスできていて、よい状態にあるなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。

 なかには、外ではうまくいかず、レッスンの場だけでよくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえます。これはありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいからです。

 私はかつて、ライブのステージをみて、「客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめ」と言ったことがあります。「それで動いてよけられないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものか」と思ったのです。

 

姿勢と呼吸

正しい姿勢かどうかは、呼吸でみればよいのです。「姿勢が正しい」と言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。しぜん、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。

すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。鈍さが助長されるからです。教えるなら、逆に、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。

教えてわかってできるようになったというプロセスには深さがないです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で説明する人が増えました。

 私の体験では、教えず、わからず、できていない方が、深まる可能性が大きいです。

 

マニュアルの弊害

私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が幾つかきました。「そうならないが、どのようにやるのか」と。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのリストです。最初に漠然とイメージしておくくらいでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいのです。

 姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。

 マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、そこだけでみると訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいのです。わかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるくらいなら、何ともならないからです。そのことさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行くことになります。