欧米人にとってのスポーツが、その階層社会の最上位であった貴族階級の体づくり(体格、体力、闘志)に基づくものであったことは、よく知られています。弁論をはじめとする声での支配もしかりで、ともにエリート育成のためという同一線上の目的であると思います。
クラシック音楽は、教会音楽として始まり、キリスト教という宗教の普及や浸透と切り離せないものでした。これらは世界戦略のツールともなったのです。
日本でも、かつて西洋を学んだ日本のエリートは、その子弟にボートやラグビーをよくやらせていました。声を通じて一体化していくチームプレーが組織運営の阿吽の呼吸となっていくのです。政治、経営で必要とされるリーダーシップに通じるからです。
最強のコミュニケーション、それは、人を動かす者たちの共鳴、共振、共同作用です。そこから発展、普及し一般化していくと、よりプリミティブなレベルで元より人々の間、生命ある者の間にあったものに戻ります。シンクロニシティ、共生、共存としての人間社会、それが再びキィワードとなりつつある現代の世界では、響き合う、触れあう、感度を高めるためのトレーニングとして、ヴォイトレも有用なのです。
欧米でのスポーツも音楽も、個人としての技術の確立が、戦いやゲームを通じて集団としての一人に、つまりOne for All, All for Oneになりました。それもまた、社会のシミュレーションとしてのトレーニングなのです。