夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

体の復活

達人の域の手技をもつ先生が来所されました。そこで体験したことは、武道にも通じる、神経というか経絡というか、ある感覚を思い出しました。

誰しも年齢を経ると日常のなかで、老化に抗うことを考えます。1年に1パーセントずつ、筋肉が動かなくなっていくという説もあります。それでは私自身どのくらい、これまで全身を動かしていたのかと考えてみると、人間としての可能性の半分以下でしょう。たとえば、幼いころから又割りをしていたら、今も180度開脚できていたでしょう。脳にいたっては使っているのは、1ケタパーセントと言われていますね。

 発声も肉体が楽器ですから、同じことがいえます。「老化で発声が悪くなった」と言ってくる人には、発声のよかったという頃の体力と気力を、半分は戻すことを条件としています。

 どんなに若くとも、理想的な動き、体の使い方や動き方が完全にできている人はほとんどいません。発声に使う喉の周辺の筋肉の動き辺りが、最初は注目されていますが、私がみる限り、全身との兼ね合いが、根本的な問題です。

逆行のマニュアル

平均的なマニュアルとは、逆行するような指導例をいくつか挙げておきます。研究所のトレーナーへの共通Q&Aブログには、もっと極端な例もいくつかあります。

呼吸 鼻でなく口で吸う

たくさん吐くように

これは、呼吸で声の流れ、均等、声の深さ、芯を養うためです

   

この研究所に限りませんが、よく発声のわかっている人は現場では次のようなことを許容します。許容とは、より大きな目的のために、一時的にスルーすることです。

ことばの不明確さ

ピッチの下がり、リズムの遅れ、呼吸(ブレス)の遅れ

音色の暗さ、金属的な響き

息の漏れ音

声域の狭さ

レガートの雑さ、声区チェンジの悪さ

裏声ファルセット、共鳴の悪さ

ビブラートの悪さ、ロングトーンの続かなさ

声質、音色を徹底して中心にみると、これらのことが後回しになるのは当然でもあるのです。とはいえ、スルーしない方がよいケースもあります。特に、共鳴、息もれなどは、個別に難しい判断が求められます。

トレーナーのタイプ

研究所のトレーナーにもいくつかのタイプがいます。相手により、やり方もかなり変えているので一口では説明できませんが。

壊すような対処をするのはリスクも伴うので、どのトレーナーも行うわけではありません。誰にでも行うことでもありません。そういう才能や実力があっても本番中の舞台をもっている人に、あまり大きなリスクは与えられません。両立できる器用さとか切り替えというような、実力というよりは仕事力もみなくてはなりません。

 人によって可能性は様々です。誰もが同じことをできるわけではありません。どの方向へ可能性をみていくかは、声だけでは判断できません。トータルとしての目的を具体化していくことを併行します。

そこで、本人の目的、プロセスと研究所としてのレッスンの目的、プロセス、さらにヴォイトレのトレーニングの目的、プロセスを定めていくのです。

 短期的に大きく変えようとするより、長期的に2~3人のトレーナーに併行してレッスンを受ける方がローリスクで大きな効果が得られます。これまでみてきたところ、自分を誰よりもすぐれているトレーナーと思うような人(思うのとそうであるのは違う)は、必ずこういうやり方に反対しますが。

レッスンのよしあし

メニュや方法だけをみて、そのレッスンのよしあしや正誤を判断することはできません。

 大きな目的を目指すなら、自らの可能性を追求します。可能性を大きくするためには、くせをとるか棚上げにしなくてはなりません。個性(オリジナル)として取り出すためには、壊す必要もあるからです。

 そのためにはマニュアルにあることと逆のことや、そこで禁じられていることも必要悪となります。

力のあるトレーナーは、そこの幅を大きくとれる、つまりマニュアルから大きく、長く離れて、結果OKに導けるということです。

しかし、大半のレッスンは目の前の小さな目的、早く正しくこなすことに囚われています。壊すということはほとんど起こりません。器の小さい人には、器を大きくしないことには大成させられません。壊すには壊せるだけのものも必要です。

壊すということ

生活のなかで身についた体感、考え方は、簡単には変わりません。それを壊すためにレッスンはあるべきなのです。

壊すというのは、めちゃくちゃにするというのではありません。何かうまくいかないのは、何かしら、うまくいっている人のようにやっていないのです。そこをスルーしてきたからです。そこを攻めること(働かせるように声や歌にしたり、感覚や筋力をつけたり)を意識して、覚えさせていくのです。それがレッスンです。

レッスンの役割

学べないということさえ学ばないとわからないのですから、こうして学んでみるのは、有意義なことです。本や他の人の言うこと、レッスンなどに充分に惑わされてください。多くの人は、そこまでいかずに、よい本、よいレッスンだったと、疑いもしないで終わりかねないのです。

 私は「問い」のつくり方を述べています。こういうものを参考に自分で「問い」をつくれるようになること、そして自分のルールブックをつくるのです。

 トレーナーがすぐれていたら、そのすぐれたところの近くまでは歩めるかもしれません。それはあなたの道になるのでしょうか。

本の役割

どんな分野でも、教科書のように、古典的なものは、初めて書かれたり、長く使われていたことで価値があります。それは、先人の残した知恵へのインスピレーションが鋭ければ、とても役立ちます。しかし、その受け売りのような扱いとなると、「過去」の「他人」の「答え」にすぎません。

もっともよく整理されていると「知識」というのです。「今の」、いや「未来」の「あなた」の答えではありません。

実用として使うなら「知識や本から学べないことを知ること」が最大のメリットです。これも、いくら読んでも何にもなりませんが、一生、かけて、使えるものにしたく思います。何年か経って、そのことに体をもって気づいたらありがたいことです。

日本の発声マニュアルはヴォイトレでない

日本のヴォイトレのマニュアルメニュは、ほぼ調整のためのヴォーカルアドバイスです。この100パーセントをベースのこと、つまり最低条件とした場合、これは無意味に転じます。

 今の日本のように、トップレベルの歌唱でブロードウエイの予選にも通じないという現状、100パーセントというのを本人の能力の限界でなく、不足したトレーニングの絶対量としてみなくてはなりません。それが100なら100を発揮し尽くすのでなく200にする訓練が必要です。

 だからこそ、トレーニングをすべきであり、ヴィオトレはその名の通り、声のトレーニングです。さらなる高次の可能性をもたらすための器づくりです。まずは器の拡大、体や感覚の強化トレーニングとして捉えることです。

個性とくせ

 「個性」と「くせ」の違いは、基礎に基づくかによってで、それは

a.確実な再現性

b.さらなる高次の可能性をもたらすか

にかかっています。

 私は、プロや天才(最高レベルのもの、日本では天然としてもよいのかも)と凡人(人並みを目指すもの)は、共通して調整のレッスンをメインにしてよいと思っています。この2つの需要が多いので、日本のヴォイトレのレッスンは調整中心でした。プロもカラオケがうまくなりたい人たちも、調整して自らの力の100パーセントの発揮を目指したからです。

内感覚

体の動き一つ、呼吸も、歌や発声に対して、本当に正しいというものは、体でなく感覚と実態です。これは、自分の内部で厳しく感じます。感じられるように高めていくしかないのです。

 先日、ストラディバリウスについて、「かつてはオリジナルのと、形、木の厚みを同じにしたから同じ音を再現できなかった。今は木の特質に合わせ、同じ共鳴をする形や厚みに変じさせているので追いついた」というような話を聞きました。目的は同じ形のものをつくるのでなく、同じ音声をつくることですから、自明のことです。参考にしてください。

 

(参考)

ストラディバリウスと声

 

 これまで、現代のヴァイオリンと音を弾き比べたときに、すぐれた聞き手でも2~5割くらいしか、当てることのできなかったのがストラディバリウスです。それでも、演奏家には絶対的に人気があるという秘密を知りたくてみました。

一流のヴァイオリニストにおけるストラドの評価は

1.音色が澄んでいる

2.粒が揃っている

3.芯がある

です。これは声や歌にも通じます。

NHKの番組での科学的な分析では、方向(指向)性があるということでした。それで、豊かで遠くまで深い音色が伝わるということでした。

 新しく最高のヴァイオリンをつくるのに、形をそのままにまねても同じにはならないので、板の振動(密度)からアプローチして、近づけていったというのは、音から考えてみれば当たり前のことでしょう。つまり、同じとか、近づけていくよりは、もはや、木ではない素材をも試し、最新の研究でというなら、その形を超えるものをつくるべきなのです。しばらくは追いつけ追い越せでの技術開発が目標なのでしょう。

ヴァイオリニストが弾き、それをすぐれて聞くことのできる人がストラドをもとに判断している限り、ストラドのような音は超えられないのでしょう。それと、ストラドの音で名手のように弾きたいという人間の欲が囚われとなります。車はすでに全自動運転できるようになっているのに、自らの手で運転したいという人間の欲がそれ以上の発展を妨げていたのと似ています。

何をもってすぐれたと音というのか、演奏というのかを、原点から考えるべきです。とはいえ、聴覚の世界では、そこの状況、ホールや音響などの影響もあり、アプローチは至難の業です。もっともすぐれた楽器をもとに考えざるをえないのでしょう。

演奏において、もっともよい音を目指そうとすると広すぎるので、ヴァイオリンというワクで絞り込むのでしょう。シンセサイザーでどんな音をつくることができても、ヴァイオリニストやピアニストは、不滅の存在でしょうか。

名楽器は、もっともすぐれた演奏家と、もっともすぐれた耳を持つ人と、もっともすぐれた楽器のつくり手という3つの条件がそろわなくては不可能です。ただ、もっとも大切なのは、それを判断できる聴衆の存在です。

楽器として、生きたままの人間の声帯とか体というのは、木などよりももっと難しいわけです。声や歌の解明がまだまだ進んでいかないのもやむをえないことですね。

 

基礎と応用

表現は、歌のフレーズの応用、歌のフレーズは声の応用、とみています、私たちは、常に声を応用しているつもりで、応用させられています。そのことで何かを得たつもりで、多くを失っているのです。

基礎のままでは通じないから応用します。そこで何かを得ているのですから、よい効果として出ていたら、よしとします。大切なことは、基礎から欠けていたものを補うことは、応用においてでなく基礎として行うことです。

 悪い結果が出ていたら、それをやめ、基礎で欠けたものを補い直しましょう。基礎そのものが本当に基礎なのかを疑ってみましょう。もっと基礎を固めることが必要なものです。

 

真偽の見分け方

表現においては、歌のフレーズで、1フレーズを、声は、声の一声をしっかりみることです。全体をみながらも、自分の体のパーツを一つひとつしっかりとチェックします。出る音一声を一つひとつチェックします。

 声を出して曲の通りに外れず変じられたらよいのではありません。声を出すのは、心地よいものです。どんな声であれ、自分の声で感情を入れるとくせがついても表現らしくなるので、そこで満足してしまいがちなのです。

 自分で満足できれば何よりもよいという世界観もあるので、そこは触れせん。そういうケースは、それ以上に、レッスンをする必要もないのです。私も自己満足している人の歌を指摘するようなおせっかいなことはしません。

 声のよさを聴かせたいのも一つ、歌のよさも一つ、表現力も一つ、どれでもその方が満足して、そこで聞いている人もよいという場に、レッスンもトレーナーもいらないのです。 

 私が述べているのは、それで満足できない人にです。言われただけのことをやれば誰でも声、歌、表現が身に付くのではないのです。すべてという限度がない世界です。

私が言いたいのは、他の世界では「全身全霊で訓練しました」ということのプロセスがとれるということ、結果は人によりいろいろですが、そのプロセスを、まずはとれるようにしたいということです。しっかりトレーニングしたら、できたとかできなかったとかを超えていくことでしょう。時間だけ経って、トレーニングした実感もなかった「楽だったけど何が変わったかわからない」というのではレッスンではありません。「大変だったけど変わった」その分の苦労をセットしていきたいのです。