蔵言とは、「よいことばに学び、悪いことばに学ばない」ようになるための、「どんなことばからもよくなる方に学ぶ」ための試金石と思っています。
人との付き合いにも似ています。相手の悪いところに目のいく人は、よいところに目のいく人よりも、その人とうまくいかないでしょう。悪いところさえ、よいと思える人はうまくやっていけます。
自分の好き嫌いとは別に、そのようにふるまえることが大人になるということです。レッスンも本もよいとか、悪い、正しい理論とか、間違った理論と考えること自体がおかしいのです。
たくさんのことが広く学べるものと、一つ、深いことに気づかせてくれるものと、どちらがよいとはいえません。
その逆ばかり考えている人がたまにいます。もっとも損な人です。ことばのかけようをなくしてしまう人です。
具体的な事例に基づく批判は大切ですが、よりよい方向に行くために、という前提があってこそです。現実を潰すだけの反対論や否定は何にもなりません。いろんな制限のなかで明確な答えがわからなくても代替案や試行錯誤してつかんでいくものです。
ヴォイトレでは、一人の人間がいて、初めて論じられるものです。ですから、一般論とか多数決、多対多での論争などは不毛なのです。現実の可能性を潰したい無駄な努力ができるだけの暇な人が関わるものとしかいえません。