何かが起きたときに、人は本性を表します。人として問われるのは、いざというときです。ですから、そのときを共有したことのない人のことは、共有した人ほどわからないと思っています。いざというときに、がっかりさせられる人もいれば、それまで何も感じなかったり、何となく苦手とか合わないと思っていたのに、素晴らしく、頼もしく感じる人もいます。自分や相手の危機、その間での危機でこそ真価が問われます。そこからみれば、日常でうまくいっているかなどは大したことでないのです。
何もないところで、レッスンも人間関係もうまくいくのは、当たり前でしょう。それは、うまくいっているのでなく、何も起きていないのにすぎないのです。そこでうまくいかなくとも大したことではないのです。単なる好き嫌いとか気分とか相性というくらいのものです。
今の日本では、曖昧になあなあにしていたら、ネットだけで顔を合わせない人との間では、大して何も起きないでしょう。
よくも悪くも、期待外れのことが起きるのは、高みを求められるからです。厳しい状況におかれるからです。それはレッスンだけではないのですが、レッスンでは日常です。そして、そこに左右されることではないと言いたいのです。そんなことより、年に何回か、あるいは何年に一回あるかどうかのレッスンでの一瞬、その非日常の時間でどうあるのか、その方がずっと大切です。
レッスンの日常を非日常にしてしまえることです。これは日常に対してレッスンが非日常ということでないのです。レッスンが日常化している、つまり、毎日がレッスン状態の意識にあるところでの非日常、365日練習での本番の一瞬みたいなことです。勘違いしないでください。