ヴォイトレをするときに、いつも私はこのことを考えています。学ばなくてもすごい使い手がいるのです。学んでそれを超えられないなら、何の学びでしょうか。
私も、多くのことをやってきましたが、何をやっても似ているし、同じでもあると思います。むしろ、同じことのなかに何をやっても違うことがある、その方が深いと思ってきたのです。
声のことでやってきたことと、声以外のことでやってきたことが、30年も経つと完全に混ざっているのです。専門家が、後に森羅万象に関心を拡げるように、私は専門でもないけれど、いろいろやってきて、というより、やらされてきて、気づくことが多かったのです。
やらせてもらえたのはなぜかというと、決して実力があったからではない、若くて何もわかっていなかったから、相手もわからないものとして私を使っていたとも思うわけです。私としては、若気の至りで、使われていた気もなく、そういう人を使っていたつもりでした。ともかく、刺激的とは、気づきの多いことでした。しかし、残ったものは平静ななかで声を出していたことでした。その結果として、獲得された声だけでした。