何でもフリーに聞ける時代になりました。アーティストの音源を聞かないで、トレーナーを見て学ぶだけではよくありません。
学びやすくするためにトレーナーは、体や息を大きく使ってみせることがあります。
そうしたパーツとしてのトレーニングでは、全体像は見えにくくなくなります。フレーズや発音のレッスンも同じです。このパーツを組み合わせても、ベストの発声にはなりません。1つのパーツをきちんと長く繋げて作品にしてみた方がいいほどです。
見せるためには、過度に強調してゆっくりと行います。息を深く吐き、ときに深い息の音を作ります。本当に深くとも音はしません。しかし、それではわからないから音をつけます。そこをまねてはいけません。
みえるところから本質を感知して、自分の中に置き換えられるかです。主体的にやるのです。まね、コピーは、本質ではありません。
習いにいっても多くの人は先生の半分以下の力しかつかずに終わります。そういうものになってしまうのは、本質をつかまないからです。一方、トレーナーや先生というのは、自分のようにしてあげよう、自分にしかできないことをできるようにしようと考えるからです。初等教育ではよいのですが、アーティストにはよくありません。
歌の先生の生徒が皆、その先生と同じ歌い方になってしまうのは、その弊害です。それが入口になっていればよいのですが、先生のようにできたら、満足するから、そこが出口になります。いつのまにか目標が先生のように―となってしまうのです。先生は、アーティストではありません。同じことができたところでなんともなりません。入口の前にすぎないのです。