表現のための発声ですから、発声の理想から外れても、表現を優先させる判断力をもつことです。その優先順位をヴォイトレマニア、人が表現する場にいない人や、浅い経験しかない人、表現してこなかった人は、とれません。
私は歌を聞くときは発声でなく、歌をみます。喉声であろうと、心を動かされる表現をとれます。これはヴォイトレに毒されていなければ、誰でもわかるのですが、ヴォイトレが10割のつもりでやっているとわかりません。よい表現が出ても、「発声が違う」と否定します。発声がわからないときに、確認を求めたがるのです。これは目的をはきちがえています。マンガのようですが、よく目にします。
若い時期やヴォイトレを始めてから、一時期は、そういうことは起こりやすいものです。いずれ、そこから出られたら、問題はありません。でも、そういうヴォイトレ信者になってしまったら、もったいないことです。マニアックに権威者の元を回り、発声だけの確認を得て、満足するタイプは増えているようです。