声については、皆さんより、わかったようなふりをして間違ったことを言う先生が問題です。特に、個人の可能性について、努力半ばで挫折した人ほど、「それは難しい、無理、できません」と言います。自分のできなかったことだからです。その克服法を見つけて、他人をできるようにしていくのがトレーナーなのに、と思います。
医者でも、見立てを疑ったら、他に2軒目、3軒目と訪ねる今の人たちが、なぜ、ヴォイトレでは「先生がこう言った」ゆえに「対処できない」と信じるのか不思議です。前の先生を離れてもまでも、そこで学んだことばに取りつかれていることがよくあります。
動きのように、形でないものを教えようとすると、いくつかの形で覚えていくしかないのです。それを形で教えると、まじめである人ほど固まってしまうのです。ことばも、固定された形です。動きは、こうして、ああしてのようで、そこでの一瞬の連続で描写するしかないのです。
声帯の動きを一コマずつみるのは、連続してみるのとは違います。プロのゴルファーは連コマ写真でフォームチェックできますが、素人はいくら見ても目でしか見えていないので修正できないのです。その形や動きをわかっても、それこそが理論であって、トレーナーや医師が説明するのに使うと便利、つまり、納得させやすく、わかったような気にさせるだけの方便です。
例えば、「ここがこうなっているから、こうなる」という説明は、同時に、他のいくつものところの動きやバランスを無視しているから簡単に言えるのです。まして、「こうすればこうなった」と、因果関係で取り出しても、大半は、「そのため」に生じたよくないことは見えなくなっているのです。
声の動きは、息でコントロールした結果なのですから、そうしたイメージを入れてもだめです。その動きをすばらしくできるためには、人のイメージを、そのままでなく自分に合うように移し替えて入れるのです。それは、みえないし、教えられても、イメージことばです。自分なりにアプローチするのです。
できたかどうかは、わかったかどうかとは関係ありません。そのまま移すのでなく、自分にわからせることを応用実践としてみるのです。