この研究所には、ビブラートのかけ方を教えるトレーナーはいません。私が、そうするように禁じているのではなく、今までのところ、そうだったのです。今後のことはわかりませんが。それだけをもってよし悪しを決めるつもりはありません。
これは、形を教えてわかるようにさせるのは違うという一例として説明しやすいので、取り上げます。
声はまっすぐ出れば、ビブラートは結果としてかかっています。もちろん、説明する気になれば、ビブラートをそれらしくかけてみせることができます。説明するときには、やや大げさにディフォルメして、わかりやすく作ってしまいがちですが、それが違うのに似せてわからせるのは必要悪となるわけです。
ポップスを歌うクラシック歌手や演歌歌手のなかには、それをもってプロの技術とみせているかのように思える人もいます。表現上の無駄、バリ(burr)のようなものです。ゆれ声とビブラートの違いを知ることです。
ところが、揺らした声やその乱れを、感情の高揚と思ってテンションを上げる客も日本には多いのです。真の技術は、隠れて支えるものです。しかし、そういうのを聞くことのない人は、あえてつけたビブラート、ゆれ声を、退屈な歌にメリハリをつけて派手に盛り上げる技術と思うのです。それで歌を成立させるのは、興業上よくても、歌手のためにも歌のためにもよくないことです。そういう客に歌手が応じると劣化が始まるのです。ナツメロで、体力の落ちたベテラン歌手が、ステージを凌ぐのに使う禁じ手としてのテクニックなのです。しかし、日本の客は、そういうのが好きなのでしょう。「さわり」などとも通じているとなれば、文化の問題ですが。
まっすぐに一点に止まっているように、完全にコントロールされた声のフレーズでなくては、人は充分に感情移入できないと、ヴォイトレ上は考えたいものです。