夢実現・目標達成のための考え方と心身声のトレーニング(旧:ヴォイストレーナーの選び方)

声、発声、聞くこと、ヴォイストレーニングに関心のある人に( 1本版は、https://infobvt.wordpress.com/ をご利用ください。)

ノウハウから抜ける

ただでさえ、自分のところにきた生徒とトレーナーという狭い分野でだけ経験を積み、さらに視野が狭くなると、現存しているものさえ認めなくなる人もいます。それは、専門的でなく自分が都合よくみているだけです。高い声も低い声も出せる人、あるいは、声量を損ねずに高く声を出せる人が、トレーニングを語るのなら、嬉しいことなのですが。

 高い声-大きい声を同じ器のなかでバランス調整するのは、確かにノウハウ、やり方の可能性です。ですから、私たちも使います。

 しかし、トレーニングを、器を大きくすること、両立できるだけの器をもつこととしている私たちには、目先、方向を変えただけのアプローチでは、地力、器は変わっていないことを知っています。つまり、マイクなしでは使えないとわかるのです(しかし、日本の歌手、声優、アナウンサーなどの、マイク前提のヴォイトレを否定しているわけではありません)。

 その結果、いつも調子によって左右されることが続く、それを固定すると、くせになっての限界が、特に声量に出ます。次に、くせで固めて安定させたはずのコントロール力にも出てきます。流れが悪くなったりかすれる、何よりも同じ響きでノンビブラート、あるいは、メリハリなく一本調子となります。今の歌い手の多くが、ノウハウでそうしてきたために陥っている同じところにいくと、ずっと指摘きているわけです。そこで若いときのように声が出なくなります。☆

この場合、ノウハウでの喉のケアだけでなく、鍛え直し、さらに基礎を固め直すことが必要なのです。そうでないと、同じことの繰り返しになるだけです。繰り返してから、ようやくわかってくる人も少なくないのですが。

大声と高い声

「大きい声でないと高い声は出ない」というのは間違いですが、だからといって、「高い声は大声では出せない」とはなりません。歌唱での声に限らなくても、そういうことです。このあたりは世界中のヴォーカルを聞けばわかります。もちろん、大きいと高いは、声帯を介する声の場合、比例はしません。

 「高い」というのもどのあたりか、また、「大きい声」も、シャウトやドラマティコテノールのようなのは、どうみるのでしょうか。それこそ、大きな声、輝く声だと思いませんか。このあたりの声の存在を、いつからスルーするようになったのでしょうか。日本人、特にJ-POPSでは。

地声と高音

かつて、私は、日本人の国際的な俳優のもつ声を聞いて、日本人の声楽よりは、役者の声を評価しました。それゆえ、声→せりふ→歌、日常レベルで、せりふも歌も同じ処理をした方がよいと思ったのです。

 このときには、ハイCなどは念頭になかったのですが、ペットインヴォーチェでマスケラを、直接、頭声をあてようとするよりも胸声からの瞬時の自動切り替えをもってアプローチすることでマスターした日本人の何人かのオペラ歌手に会って納得できました。ハイトーンといえど、理想的な発声の延長にすぎないのです。

それは、邦楽での名人の地声中心から高い裏声への変換のレベルの高さ(詩吟など)にも共通しています。少なくとも、今の私にとっての基礎というのは、欧米人のまねでなく、邦楽、日本人の発声にそのまま通用するレベルの深さなのです。とはいえ、そのプロセスで、役者、外国人の声、声楽の声を徹底して研究して、今があるのです。

 

裏声トレーニング

男性が、ファルセットや裏声でヴォイトレするのと、声域は全く逆ですが、離れていることでは同じことです。普段の発声から離れているから、柔軟性を取り戻すきっかけになるということでは同じなのです。裏声と同じく、低い声は、人によっては、より声帯の理想的な使い方にアプローチできる域です。まさに革命的な発想?ですが。

一部の声楽家はこれで大きな効果をあげています。地声ですから、声帯がきちんと合わさったところでのコントロールを学べるからです。ここをトレーナーの多くは苦手として、また喉声だと勘違いしているのです。そのあたりの経緯は、私の本(「読むだけ…」)に詳しいです。

胸の声と最下音☆

「この声がよいからこうしなさい」の前に、どれだけの声が、あなたにどのようにあるのかを体験してほしいのです。歌とかステージでということでなく、あなた自身、その体から出せる声のマップを広げていくことです。

 そこで私が提唱したのが、「大きく、太く」です。胸声に批判的な人はここだけをあげつらうのでしょうが、それは当時の、体に宿らない口先での声を、皆が高さだけを求めて追っていたことへのアンチテーゼでした。それこそバランス調整ばかりを言う人たちよりも、私こそがバランスを考えていったということになりますまいか。

 それを歌や表現して使うということでなく、声として出していく中で、呼吸、体を広げ器を広げて、全身で声を出すことを身につける、その上で、使わないなら捨てたらよいと言っていたわけです。どうして使えもしないハイCより上の声から目指して練習するのか、私は今もわかりません。「細く高く」が、ヴォイトレのようになってしまったではないですか。

 そのくらいなら、使いもしない1オクターブの下の声(これは歌に使わない、日本の歌では使われないだけで、使えるし、外国人は使っているのですが)を試みるのは大いに意味があるのです。下手に使っていない分、しぜんで、荒れたり、くせがついていないから、とても可能性があるのです。

 

正しいを求めない

器を広げるのには「正しい」を求めなくてよいのです。いろんなトレーナーと可能性を広げていく、器も広げていく、そこから気づいていくとよいでしょう。一人でやると、くせがつきワンパターンとなって、固まり狭くなりがちです。

 まず、どんな可能性があるかを、目一杯模索してから、可能性のある方へ絞り込んでいくのです。

いろいろやってみることがよいのは、今の自分の器を知るためです。最初から「正しい」を求めてはよくないのです。今の限界を拡げる前に決めつけてしまい、可能性を狭めていることになるからです。今の「正しい」で通用するくらいなら、ヴォイトレは不要です。より高い目標を求めていくと、自ずと正されてくるものです。いろいろやるばかりではだめで、絞られてくるように、いろいろやるということを忘れないようにしてください。

 

うまいということ

「うまくいった」と「うまく歌えた」とは違うということです。とはいえ、私にとっては、目指すべき目標に足らないことで一緒です。

 高い声が出るやり方、これは声を小さくすることなどで高いところへバランスをとり届かせる、あてる、その形で再現できるように慣れさせる、など、さまざまなノウハウがあります。やり方でやるとは、わかりやすくいうと、くせをつけるということです。ですから、声を小さくすること以外にも呼吸や体がより使えないなど、マイナス面がたくさん出ます。基礎できている人がこなせることを、そこができていないのにやろうとするのが無理なのです。

しかし、声域しか興味のない人には、あるいはそこに関心がいっているうちはみえません。いや、どうもずっとみえない人の方が多いようです(TVで紹介されたヴォイトレの方法に関して、同じことを述べたことがありました)。

間違っているのでなく、その目的に早くたどりつきたい人が、そのようにしたのですから、そこは正しいのです。私の嫌いな「正しい」が出たことで、読んでいる人はこれがよいことと、私が思っていないとわかるでしょう。でも、あなたがよいなら、それでよいのです。

すぐ直さない

本当のレッスンとは、わずかな欠点をも拡大して取り上げ、本人に突きつけることです。そこですぐに直せるというのは、隠している、ごまかしているにすぎません。直せるようなものは、直しても大して何ともならないから、放っておいてよいのです。

 それは、器が小さいからです。器が大きいと強みが出て、欠点さえ個性になるのです。

 一流やプロで長くやっている人を思い浮かべた上で、トレーナーの声と比べてみるとよいでしょう。それは応用と基礎の違いを知るにも有効です。そう思える声をもつ人など、ほとんどいません。海外の一流のトレーナーについた日本人も、声そのものでなく、その名でPRするためでしょう。その方法やメニュをまねることで売りやすくしたいだけです。

 10年も経つと「ここを出て、他のところでうまくなった」人のうち、何人かは、ここに戻ってきます。うまくなったことなどに価値がないことがわかるからです。それも一つの学び方です。

やり方とうまさ

最初にやり方から入ると、やり方として残るから、あとの障害になる点、いや、障害とわからなくなる点でよくないということです。取り除くことをあらかじめ考えていたというなら別ですが、それはそれでよくはないでしょう、計算づくになるからです。

他のところを悪者にしてはよくないので、ここを例に述べると「ブレスヴォイストレーニング法や研究所のやり方でやろうとするとうまくいかなくなる。しかし、他のところのやり方ではうまくいく」とします。これは、なまじ嘘ではありません。そういうときのうまくいくとは、バランスのことだからです。こういうケースのバランスというのは、欠点を隠すことです。うまくいくのは、うまく欠点を隠したということです。それをレッスンの目的と思う人が増えました。それは一時のプロセスとしてはよくても、最終目的、これをハイレベルにとればですが、そのプロセスからそれてしまうのです。

無法エリア☆

トレーナーからは、「その出し方やめなさい」と言われるような発声も含め、ベース以前にいろいろと試みていることは、重要なことです。それによって、既存の価値観に囚われない大きな器をもっていることが、単なる歌い手というより、アーティストには必要です。あらゆる分野での一流の人に通じます。何よりも、感性と世界観なのです。

 研究所で行ない始めて、私が最初に気づいたのは、「無法エリア地帯の必要性」でした。ストリート、もしくは荒地です。役者が育った時代は、背後に有無を言わせぬ世間と養成所があったのです。日本の村の祭りや民謡酒場みたいなものです。そこが地力のバックボーンとなっていたのです。学校のように上から下に教えるのでなく、現実の世の中のように、あらゆる要素を集約する場が必要だったのです。

プロセスとバックボーン

私の理想からいうと、これも、これまでのサッカーの例でくり返しますが、最初は、育ち、というと幼年期、自由におおらかで街の中でサッカーを蹴っていた。次に、基礎でジュニアチームで、そして、応用でプロチームで、とはいえ、どれも求められるレベルの違う基礎の基礎づくりが必要です。

 最近の日本人にないのは、育ちのなかでのボールとの戯れです。いわゆるフィールドやルールがない中でのボールとの触れ合いの時間です。無駄に無謀で危険と接していた時間が貴重となるのです。

 国が豊かになるとストレートプレイはなくなります。これは危険を伴うので、禁じられます。日本では「街や公園でボール蹴るな!」です。しかし、そこの経験で、後のファインプレーの発想や勇気が出るのです。これはリスクを伴うからです。これが単なるプロでなく一流の選手になるための本当のベースなのです。

 

秘法、ノウハウのレベル

例えば、声などであるレベルに到達した人やトレーナーには、「最初は(誰かに教わって、自己流でやっていて)間違っていた」が、後で「誰かに教わって」とか、「自分で気づいて自分のやり方を編み出して」解決したという、いかにも何かしらの秘法、ノウハウがあって、それを自分がもっているような売りのトークを使う人が少なくありません。それは、今の力がどうで、自分がどこにいるのかということの客観視能力のなさをアピールすることになりかねないのですが。でも、宗教の開祖も、そういう論理を使うので説得法の一つですね(バカな私でもできたから、これを使えばあなたもできる)。

 早く何とかしたいという人は、そういうストーリーに惹かれます。秘法、ノウハウを教わって一気に大変身したいと思うからです。早く少しうまくなるでしょう。そういうやり方だからです。でも、そこからは声の力も伸びずに終わるのが大半です。それは自分の才能とか素質の限界と思うようになっていくのです。

 その証拠は、いつまでも習った人が教えてくれるトレーナーのレベルにもいかないことです。そういうトレーナーの多くは、若いときに成功した人です。若いときに歌っているときの方がずっと声もよく歌もうまく、トレーナーになってその力がキープできない人、つまり、本当なら、提唱するトレーニング法があたっていればさらによくなっているはずなのに、ならなかったケースです。ファンだった人は気づかないのかもしれませんが…。