28.個人史
たとえば、私は、歌い手や小説家、映画監督、俳優、声優などになりたいと思いつつ、本気でそれを成し遂げた人ほどには、そう思わなかったのです。私のまわりにそういう職についた人たちがたくさんいます。それを成し遂げていくのを見守ってきました。この場…
「人類」というのは、必ずしも「自分」ということではないのです。 自分でなく、他の人がやり遂げることがたくさんあるのです。いや、考えるまでもなく、その方が多いわけです。多くの人がそういうことを思えば、どこかの世代の誰かが成し遂げるということな…
本音で書こうとするほど、ノウハウや実用書から自己啓発書ではなく文学書、評論のようになっていくのを感じています。 自己啓発書は、出版に関心がなくなると読めなくなりました。 学校でいうと生徒募集の広告みたいなものです。章立てとか小見出しは、コピ…
私もいろんな番組や一言アドバイス講座の出演を持ちかけられることがあります。研究所のレクチャーでもそれを行い、それに代わる情報をたくさん出しています。 それ以上に、メディアにうまく応じようとするがために本質を外してしまうようなことが、よく起き…
声や歌やセリフの素人であっても、必ずしも人生の素人ではないのです。 そこを信頼して、私はこれを続けているのです。
私の発言が、政治的、社会的に使う用語を避けないで使うから、声の勉強と関係のないように見えるのでしょう。何を誰と話しても、話とは、政治的、社会的なものといえるのです。 音楽やアーティストに対する評価などと変わりません。 「それは気に食わない」…
業界のことばかりを考えてきたわけではありませんが、結果として、この分野をつくり、相当に普及を促してきました。 本は全国で販売されるので、読んでも、この研究所にいらっしゃるよりは、他のスクールに行ったり、他のトレーナーにつく人も多いのです。 …
わかりやすくしたために本質的なことが失われることは、できる限りなくしたいのです。 しかし、それを避けるなら、複雑なことを話すはめになります。 聞く人は、ことばに囚われ、進めなくなります。 それなら話さない方がよいというのが、達人や芸人の考え方…
私が知っているということは、私の体験やその結果なので、一事例にすぎません。 誰であれ、そういうものは、かなり偏っています。 問いも答えも、深めるほど、ほんの少数の人しか使えなくなります。 しかし、私が十代から十年、それに没頭したことを体験する…
歌がお茶だとしたら、ヴォイトレも茶道のようにプロセスとしての成立ができるのではないかと探ってきました。 歌ではなく、歌唱の再編集が、歌のヴォイトレです。
私も、先人の残したものをたくさん学びました。 今も、若い人の考えやメニュも学び続けています。 その一部は、会報で公開しています。 学ぶところでの言語化の重要性を知り、それをこの場だけでなく、できる限り記録として残しています。まさに、民主的なシ…
私は、自らに「主宰」という肩書を使ってきました。 世間に合わせ、代表や所長としたこともあります。 座主、道場主、つまり、「場」を貸し与える主のつもりでした。 今は、トレーナーとスタッフで、ほとんど賄われているので、プロデューサーのような立場か…
スクールのように規格化すると、習う人は、おのずと均質化されていきます。つまりは、平均化、学校化です。下位からみると実力アップですが、上位からみると、真ん中という低い方へ合わせることになるのです。 発表会などでも最初は、できる人だけのステージ…
「思うままに人生がうまくいっている」と言う人にも、私は、何人ともなく会いました。 それなりに著名で活躍している人と会う機会に多々、恵まれたのは、私の運であり器量です。 ただ、それをもっと活かせた人もいたとも思うのです。 また、そのように言われ…
私は、オペラ歌手になろうとは夢にも思いませんでしたが、「どうしてあのように声が出るのか」を知りたかったのです。 その声がどうしてあれほど人を感動させてしまうのか、自分を感動させるのか、それもわかりませんでした。 今も、後者はわかりませんが、…
私も、多くのトレーナーにつき、海外にも行ったのですが、それで海外に行ったから、身についたとは思いません。自分でトレーニングをしたから身についたのです。 自分のやったことをとことん疑ってきました。もしトレーニングをしなかったら、どういう声にな…
私は、単に、自分でトレーニングを続けてきただけではなく、ここで10年以上続けてトレーニングした人をたくさんみてきました。 年月の長さでは、声楽家の先生などには30年以上続けてみている人はいるでしょうが、かなり限られた人数でしょう。 しかも音大生…
私が社会生活と芸事との両立というのを考えるようになったのは、いつからでしょう。 修行のように苦しいだけでは続かないし、効果も行き詰まります。 社会は厳しいようでいて、救ってもくれます。 社会と芸事、二本の柱が必要だと思うのです。
私は、トレーナーとして、あるいはそれを統括する者として、場を構えていればよいと思っています。 相手が行うことが優先ですから、でしゃばりません。その上でクライアントもトレーナーも区別なく、学び合い、表現し合っていけばよいと思うのです。 その方…
私が、オペラの歌い手に学べたのは、声が主で自分が従だということです。 神の声を自らの身体を媒体にして受け、出していくという感覚です。 それは、一流のタップダンサーの足が命を得て、独自の生き物になって動くようなものです。つまり、主に人間が従と…
一人ひとりが違うことと違うようにつくることとは、全く対極のことです。 しぜんに違うのだから、生まれたまま、日常のままでよいと思われることもありますが、それも違います。しぜんが与えた潜在能力を最大限に発揮する、ということであり、そのままではな…
私も朝から晩まで、発声の練習をしていたことがありました。 質はともかく、その時間と量と熱意は、誰にも負けなかったつもりです。 この量が、自信にも選択という運命にもなったわけです。 しかし、今となると、40代以降は、総量として、一部の歌手や役者な…
私は、いつも一人に、どこかにいる一人に向けて語るようにしています。 対象は一人いればよいのです。 二人以上いることは必要条件ではないのです。 一人いれば、あとは、二人でも百人でも一万人でも同じと思うのです。
主人であるホストと客であるクライアントが同等、そして、それを超え、客が主役となるのが理想です。 私は、自他の区別がなくなるレッスンを目指していました。 無我夢中でやって、1990年代半ばに、その境地に到達したのを覚えています。 そのエネルギーがこ…
人や場から、その動きや言動にまねび、学べるところは多いものです。 パワースポットよりも舞台で人前に出て何かをなすこと、殊に、肉体表現芸術では、人や場にあるエネルギー、オーラというか、凝縮した何かに触れることから始まり、続くといえるのではない…
一つのことが全てで、全てが一つにつながっているというのが、全能感です。 私は、声で、それを個=孤として感じてきました。もっとも印象に残ることには、いつも声が関与していたのです。これは当然のことでしょう。 人が関わっていくことの大半は、声で介…
私は、人に尋ねるとしたら、相手のためにもなるくらいに問いを目一杯、引き上げます。高望みして、問いをとことん考えるでしょう。 質問でその人の学びのレベルはわかってしまうからです。 相手がどこまでこちらを読むのかはわかりませんが、少なくとも、先…
私がいろんなものから学ぶのは、相手の言いたいことではありません。 自分に必要なことです。 それは、相手の意図していないこと、話さなかったこと、書かなかったこと、もしかしたら、相手の知らないことかもしれません。 他の人から学ぶことは、その人を介…
心身も楽器も使い方も違ってこそ、魅力あるあなたの声と表現なのです。 ですから、そのトレーナーがどう評価されていようと、あなたが独自の価値をそこから得られるようにしていく、真価は、そこにしかありません。そういう結果が出ることで、私はここのトレ…
社会にニーズがあって、自らができることは、仕事、公のものとなります。他の人の求めに応じるので、それは、社会との関わりとなります。 人は、自ら生みだしたりすることよりも、制御したりコントロールすることに疲れるものです。ですから、そこが仕事とし…