毎日300歩しか歩いていない人が、どんなに楽に歩ける方法を教えてもらっても、毎日300歩しか歩いていないでマラソンに出られるわけがありません。仮に、完全脱力した理想発声とやらを学んでも、歌やせりふは、そこから離れた声を使ってしまうこともあるのです。
その点は、声楽家の方が恵まれています。「話をしたら歌えません」というようなレベルでさえ、守る術も使える環境も、あるといえばあります。だから、日本の歌はよくもならないのでしょうか。
ていねいに、完全にコントロールするのは、パワーのためなどと考えることもなくなってきたのでしょう。表現でなく歌となること、歌いこなすことが目的となり、そうなってしまうのでしょう。
鍛錬と調整(条件と状態)の関係で、同じことを述べてきました。大きな声は、小さな声を繊細に使うために、小さな声は大きな声を無理なく出せるためのトレーニングとなります。声でなく感覚や呼吸を含めた体づくりのため、です。<早くとふしぜん>という問題も絡めました。
頭の中がまとまりましたか。よけいに混乱したら、それはそれでよいのです。声も、呼吸も、知見も、感じ方も深めていってください。氷のように表面が固まらないために一石を投じているのです。水のようにしなやかになってください。