かつて、アーティスト放任主義で、私の覚悟が伝わらなかったあたりに、私の若さや未熟さがあったと自省しました。本質をつかむのに、年齢も時代も関係ありません。もう少しで深くなるところに、浅くつかみやすいロープが降りてきたら、それを助けとばかりにつかまる人もいるわけです。
この本質は、私がそう思っているだけかもしれません。それが通じていない相手には本質として存在しないのですから。みえなければそこであきらめるしかありません。もっとパラダイムシフトを、つまり体系や型を揺らして本人が自ら創り上げていく手伝いを、具体的に身を提して挺して求めていくことが望まれたのかもしれません。
当時から、声もせりふもヴォイトレも、本人自ら創っていくものとの思いは変わりません。多くの人は、固定観念からか、発声法は教えられるべきもの、声はこう出すべきもの、正しい発声があってそれを学ぶものということで囚われてはよくないのです。