ですから、声と歌の行き来をしつつ、声の評価と歌の評価を噛み合わせていくのです。プロデューサーやバンドは、声や体よりは歌、あるいは音楽で判断します。その人の声のベストよりも作品としてのベストです。その人の声のベストで見てから作品に歩みよっていけるプロデューサーは、稀有ですが、います。トレーナーは、その手段としてのメニュ(方法論)をもつということです。
ピアノの一音の完成度は楽器、調律、弾き方(発する音)です。演奏はメロディ、リズムという流れの中でのバランスです。1音をきちんと弾くよりも優先されることがあります。ミスタッチしようものなら大失敗でしょう。
同じ音でも、単にそのタイミングで音が出ればよいというのではないのです。弾き方での評価はあります。完璧な演奏、間違えない演奏に対して、基本が問われるのです。
正確さは、間違えなければよいのでありません。丁寧さも雑でなければよいのではないのです。演奏の基礎技術は、音が一体化するために最低、必要な条件です。
それを声で、となると、なぜこんなに何でも許されるのかが不思議です。日本では雑なものです。1番と2番で、ことばの違いはあっても、声のコントロールが全く違ってしまう、そこに本人さえ気づいていないことがよくあります。だから世界に通じないということです。
その人の声であり、ことばであるから、歌の説得力が出てくるのです。そこに甘えて、音楽の演奏ということがおろそかになるのです。音としての作品でなく、パフォーマンスやその人柄、情熱、努力などでみて、わからなくなるものです。
日本では、プロでなくても誰でもできてしまうためにプロたるものがわかりにくいのです。そこでギャップと上達のステップが、プロに近づくほどわからなくなっていくのです。
日本での歌のプロは、うまい、正確ということの応用力を問われています。アーティストとしての評価は、全く別になるのに、です。これをガラパゴスとみるか、低レベルとみるかは人によります。結局は、日本で日本人相手にやるのだから、それでいいとなるのです。