研究所では、特に単独に声としてみています。声をその人が自らを導びき、その人の正解にしていくのです。その人の好みでなく、その人のもって生まれたものが最大限に出るところにするのです。
歌も演技も声の力に頼れなくなったのに、そこでヴォイトレとしてこだわるのなら、声そのものを絶対化するしかないとなります。差別化や個性化よりも、強い存在としての絶対的な声を目指すのです。
ここで「他人に認められる」のでなく、それを超えて、他人がどう思おうと「あなたの声」にこだわることになります。
ここで間違って欲しくないのは、他人の判断を超えるのは、他人に判断できないレベルを超えてなされていることで、他人に認められない、期待に応えられない声ではありません。
単に高いだけ、音程、リズムが正しいだけ、カラオケの高得点が出るだけという発声のための、切り売りや継続したレッスンがあるのは、こういった真っ当な歩みとまったく別のことです。
私なりの正解についての考え方は、他人がそうすると間違いになるような表現もどき、くせ、まねなどを、自分がやると「ど真ん中の正解」となる、そのような声と表現を求めるということです。あなたがやれば、すべてあなたの正解ということを目指すということなのです。