多くの人が長い時間、継承して育んでいく。それが文化です。ですから、オリジナリティもその風土と切り離せません。
「誰かに影響を受けて、誰かが立ちあげること」から、オリジナリティの価値が問われます。歌を、表現、アートとしてみたときに、トータルとしてのステージ、その人の体から出る声、その動きの一つである歌と、その人の人間としてのトータルな世界観としてオリジナリティの価値が問われます。
そこからみると声は、それだけで充分ではないとしても、必要な条件の一つといえます。
歌い手が、歌の価値をどこにおいているかは、それぞれに違います。価値を声に置いたとき、その人がもって受け継いできたDNAから、そこまで生きてきた育ちに大きく影響されているものです。そこからオリジナルの声や作品としてのオリジナリティをいろんな形に切り出すことはできます。声として、歌として、ステージとして、それぞれに表現をみるのです。それを念頭においた上で、ヴォイトレでは、まずは、体からの声というところでみる、独自の声としてのオリジナリティをみるべきだと私は思うのです。
トータルであるがために作品づくりに急ぎすぎ、声にくせをつけたり、本人の限界まで整えずに可能性を狭めたりしていませんか。使いやすいだけの声、痛めていく声を使っているのは、もったいないことです。
その前にもっと開放すると、自由自在に扱える声があるのです。もっと深めたら大きな可能性が開かれるのに、歌はおろか、ヴォイトレまでも、声そのものよりも発音、ピッチ(音高)、リズムばかり気にして、本当の声を使うアプローチをしていないことが、現実には本当に多いのです。そこが、私は残念でならないのです。