A―B―C―Dの世界は、器が違うのです。その次元を変えなくてはなりません。まずは、D、歌の表現に対して材料の取り込みです。聞き方を変える、つまり、インプットです。インプットするものを補充していくことで、インプットの仕方を変えます。例えば、Aの器を得るのに一流の歌い手の体と声、息を徹底して聞くのです。聞くというよりも感じることです。
どんな一流の歌手も行ったことは、一流のものを聞く、量が最初ですが、必ず同じもののくり返し、深読みがそこにあります。一流の耳にしていく、そのために聞くことで、質が肝心です。この2つが伴わないと一流の器ができなかったのです。それにプラスαが必要ですが、トレーニングは確実なところとして器をつくるところ、量のところを確実に重ねます。できたらその質的転換までを目指します。
A、D先行で、B―Cは、そこの伴うものとしてみています。しかし、意図的にBを声楽教本(コンコーネ50)、Cをカンツォーネ、スタンダードポップス、オールデイズなどで進めることもあります。声楽科の4年生~6年生レベルです。劇団四季のオーディションならB―CでOKでしょう。
ケアはB’、 C’から行うのです。でも、トレーニングならA、Dからと考えています。後はスルーしてもよいのです。なのに、そこがヴォイトレということで、私は“ヴォイトレ”不要論を唱えることになったのです。
結果、効果をどこに求めるか、対象が誰か、目的が何か、そのレベルに応じて異なるので、いろんなヴォイトレがあってよいと思います。ただ、ヴォイトレが声のトレーニングになっているのかということに、私はこだわっているのです。